遺伝子治療で色覚異常を治す


Gene therapy for red–green colour blindness in adult primates
Katherine Mancuso, William W. Hauswirth, Qiuhong Li, Thomas B. Connor, James A. Kuchenbecker, Matthew C. Mauck, Jay Neitz & Maureen Neitz
Nature  Advance online publication 16 September 2009


 すごくインパクトのある論文だと思う。先天的に錐体視物質が一種類欠損していて色覚異常が見られるリスザルを、遺伝子導入で治療したという話。具体的にはウイルスベクターを用いて遺伝子を導入することで、欠損している錐体視物質を発現させようと試みた。それも成体になってから。そうすると遺伝子導入から20週を過ぎたあたりから通常の色覚を回復(獲得?)したかのようにふるまいだしたと。


 神経科学的な観点からいうと、この研究は視覚機能獲得における「臨界期」という考え方はこれまで考えられていたよりも適応範囲が狭いかもしれないということを示している。ノーベル賞を受賞したHubel & Wieselは、幼少期に一定期間片目を閉じているとその目から来る情報はその後使われなくなる(後で目を開けたとしてもその視力は失われている)ということを示した。これは幼少期のある時期(臨界期)までに脳への正常な入力がないと、その目から来る情報を処理する大脳皮質の神経細胞が生涯に渡り失われてしまうから。(この知見により、乳幼児に片目の眼帯をつけることは禁物とされている。)


 錐体が先天的に一種類足りないと、その情報を処理する脳内の神経細胞も失われる(あるいは初めから生成されない)と考えられる。これに上記の単眼遮蔽実験の結果を敷衍して考えると、成体になってから錐体の種類を増やしても色覚は回復しないだろうと類推される。でもその類推は(少なくともリスザルにおいては)間違いだったと。


 派生的な質問を数多く生む研究でもある。どういう種類の視覚機能には臨界期があり、どういうものにはないのか。それは入力の統計的な性質がそうするのか、それとももっと器質的な何かなのか。色覚が回復した(ように見える)のは、先天性異常のない場合の神経回路と同等の仕組みが出来たからなのか、全く別のやり方で機能補完がされたからなのか。色恒常性などのより高次の機能も獲得されるのか。また獲得されるとしたら、それは色覚の回復と同時に起きるのか、それとも更なる訓練が必要なのか。


 医療応用としても非常に重要な論文だと思う。日本人男性の5%、白人男性の8%が赤緑色覚異常と言われている(女性には少ない)。個人的につきあいのある人たちの中にも何人か赤緑色覚異常の人がいる。これが大人になってから、しかもウイルスベクターを使った遺伝子導入という比較的侵襲性の低い治療法で治るかもしれないと。素晴らしい。


===

 以下、妄想的な話をすると、まず気になるのは大人になってから新たな色覚が生まれるというのはどういう感覚なのかということ。多様な緑色がこれまでにないぐらい鮮明に区別できるような感じなのか、それとも全く新種のクオリアが生まれるのか。あるいは知覚は何も変わらないけれど、区別しろと言われたら何故か正解できてしまうという感じなのかもしれない。この辺はリスザルさんに話を聞くわけには行かないので、ヒトへの応用が始まるのを待ちたい。


 あとこういうことが簡単に出来るようなら、応用として磁場センサーとか電磁波センサーとなるたんぱく質を適当に設計して網膜に導入したら、それが「見える」ようになったりするだろうか。地磁気が見えると方向音痴の人には便利かもしれない。MRIスキャナには二度と入れなくなりそうだけど。


===

 ところで、National Geographicの日本語版にもこの論文を扱った記事があるのだけど、訳がちょっとまずい。


サルの色覚異常、遺伝子注入で治癒
ナショナルジオグラフィック 公式日本語サイト
2009/9/17

新たな研究により、サルの色覚異常が簡単な細胞注入で治ることが確認された。

タッチスクリーンのテストを一通り終えた後、研究チームは色覚異常のある2匹の網膜の裏側に赤に反応する錐体細胞を注入した。

 細胞注入ではなくてウイルスを使った遺伝子導入。この2つは全然違うと思うのだけど、分野によってはそういう言い方をすることもあるのだろうか。ブックマークでのコメントでもid:terazzoさんやid:felis_azuriさんが疑問をもたれている。

9月17日に「Nature」誌で発表された研究論文によると、それら2匹のリスザルは1週間以内に赤と緑を識別できるようになったという。

 1週間以内という記述は見つけられなかった。元論文には20週で改善が見られたと書いてある。


 オリジナルの英語版(↓)にはこれらの変な記述はないので、たぶん訳し間違いでは。かなり混乱を招く種類の間違いだと思うので、直した方がいいと思う。


Color-blindness Cured by Gene Injection in Monkeys
Christine Dell'Amore
National Geographic News
September 16, 2009