大学院の教員はどこまで学生の面倒を見る必要があるのか?

 ブログ界隈を見ていて何だか??という気分になったので、思ったことを書いてみる。


学生がその後どうなるのか (lanzentraegerさんの元エントリ)

大学院生は利用され使い捨てられているのか (stochinaiさんのコメント:教員目線から)

ドクター問題その後(5):学生の未来に関心のない指導教員、そしてアカハラ (vikingさんのコメント:ポスドク目線から)

一夜漬け: アクセス新記録 (stochinaiさんのコメント:再び教員目線から)


 大学院の教員というのは学生の人生設計まで面倒を見る必要があるのだろうか。「教育機関である」⇒「人生設計の面倒を見るべき」という話の流れがあるけど、それって合意が得られていること? たとえば司法試験予備校に行ったけど人生設計の相談に乗ってくれなかったら、怒る?


 大学院というのは研究をしながら研究の仕方を学ぶところであって、それ以上でもそれ以下でもないと思うのだけど・・・この認識は間違っているのだろうか。

しかし、例えば、偏っているかもしれないが悪い例を出せば、10に1つ当たるような研究課題を10人に与えて、9人がやめても、1つ大きく当たればほくそえむ研究指導者もたくさんいるだろうと感じます。

(元エントリより)

 これもわからない。ほくそえむのか残念に思うのかは知らないけど、研究ってそういうものでは? 結果が出ると判ってることなんて初めからやってないんだから、いくつかのプロジェクトを平行させたりしていろいろ工夫しながら泥臭くやっていくしかないんじゃないかな? lanzentraeger さんが指導する立場に立ったらどんな運営の仕方をするのだろう?

 (この辺は分子生物学系が特にひどい状況なのかも? でもそれは判っていて、それでも分子生物学を志したんですよね?)

学生の将来は、ほとんど指導教官の『良心の呵責』に支えられていると言っても過言ではないのではないでしょうか。

(元エントリより)

 あの、ごめんなさい、でもはっきり言って何歳の人がこういうことを言っているのだろうと思ってしまった。(しっかりしてくれ博士〜!)


 もちろん、「ひどい教員」というのはいる。日本の大学院を出た一人として、いろいろ思うことはある。アカハラだったり、あるいは研究以前の問題として、願わくばこの人とは生涯関わらないでいられますようにと祈らずにはいられない人がいるのは確か。そういう人を少なくするためには、viking さんの提案されたような何らかの対策は必要だと思う。でも問題教員の話と進路の面倒を見る/見ないというのはまた別の話だと思う。


 lanzentraeger さんは「人材育成」と「人生設計」をごちゃごちゃにしているように見える。研究者という人材を育成するのが大学院の役割なわけで、それを果たしていないなら糾弾すれば良い。あるいはそんなところには入らなければ良い。そこはおっしゃるとおり、先輩の話を聞くなりいくつか研究室を回るなりして調べたらいい。で、人生設計? それは自分で考えることでは? 教員なんて人生あるいは業界の先輩として何か利用できればラッキーってなぐらいで、初めから世話してくれるのが当然で世話してくれない奴は冷酷な自己中野郎的な扱いなのはどうなんだろう。


 まあ、先のことは判らない。それが時代の趨勢なら、大学院が人生設計まで面倒を見るようになるのかもしれない。博士課程でも学部や修士のように企業への学校推薦制度が充実するのは良いことかもかもしれない。でもそれは教員がやることというよりも事務方でまとめるようになるんじゃないだろうか。教員のインセンティブ云々もあるけど、そもそもアカデミック一筋の人にそれほど企業とのパイプがあるとも思えない*1。つまり、やりたくないし、できない。そこに期待するのは最適でない。


 なんかダラダラと書いてしまった。いや喧嘩を売るつもりはないのです。問題が山積みなのはその通りだと思います。ただ何か攻め方がちょっと??というか・・・。大学院重点化がまずいというのは完全に同意です。
 甘い気持ちで大学院に入ってきて実際の姿を知って鬱になるという友人や後輩の姿を見てきたので、いろいろ思い出してしまいました。ちょっとだけ先に経験をした立場で、もし今過去の彼らに何か言えたとしたら・・・

 大学院はエキサイティングなところですが、大学までと同じような「学校」ではないです。大人として身の処し方を考えましょう。モラトリアムの延長として入るのも自由ですが、その場合かなりいろいろな、場合によっては人生を左右するような、摩擦を経験するでしょう。

*1:もちろん分野にもよる。