一般化と普遍化
中島義道『<対話>のない社会 −思いやりと優しさが圧殺するもの』を読んだ。
「対話」のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの (PHP新書)
- 作者: 中島義道
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 1997/10
- メディア: 新書
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本の主題とはちょっとずれるのだけど印象に残ったところを抜粋。
<対話>は対立のないところでは育たない。対立を大切にする社会、互いの差異を正確に測定しようとする社会でなければ死んでしまう。倫理学者R・M・ヘアは「一般化(generalization)」と「普遍化(universalization)」とを分けている。前者は自分の価値観や規範意識をそのまま拡大する作用であり、後者は異質の価値観や規範意識を統合しようとする作用である。言うまでもなく、前者ではなく後者こそ<対話>を活かし育てる概念である。
「他人の痛みのわかる人になろう」というスローガンに異存はない。だがこの国では、この標語が「自己の痛みの拡大形態として他人の痛みをわかる」という図式になりやすいのだ。これは危険な思想である。なぜなら、自己の痛みの延長としてしか他人の痛みを理解できないことになるから。私がつらいとき他人もつらいであろうとまでは言えるが、私がつらくないときでも他人はつらいかもしれない、という発想にはなりにくい。いじめが起こると「自分がされたらどんなにつらいか考えなさい」というお説教ばかり聞こえる。そうではないのだ。自分がつらくない些細なことでも他人はつらいかもしれないのである。自分とは感受性がまったく異なっているかもしれないのである。だから、「他人の痛み」をわかるのはじつはたいへんなことなのである。
(p. 188-189。強調は引用者による。)
- 「一般化」と「普遍化」を分けるという考え方は面白いと思った。両者とも未知の状況に関する予測モデルについての話だと考えると、一般化は自分の経験した入出力関係に基づいてそれを敷衍しようとする作用、普遍化は直接経験のないところで獲得されたモデルをエミュレートしようとする作用、というところか。
- 「普遍化」は、余程単純なシステムを仮定しない限りは、一般的には不可能のように思える。少なくとも対人で普遍化が可能だと思うときには、普遍化される対象の情報システムとしての自由度・キャパシティについての「みくびり」があるのでは。もちろん個別の事柄(Vさんは十字架とにんにくを嫌がる、等)を学ぶことはできるだろうし、それでひとまず対人関係の問題なんかは回避されるのだろうけど。(あるいは倫理学者の言う普遍化というのはそのぐらいの意味合いなのかな? 勝手に拡大解釈している?)
- でも一歩メタに考えると、「普遍化」は「一般化」する対象に他者というエージェントが加わっただけで、複雑にはなるけど結局やっていることは同じこと?