規則的な文法のゆらぎ?


追記あり:8/16)


 日本では携帯小説(携帯で読める小説? 携帯で書いた小説?)というのが話題らしい。で、そこで書かれている文章がひどいという話があるらしい。でも例に挙がっている一人の著者に関して言うと、そこにはある種の規則があるような気がする。例えば、

二人が向かった先は地元で有名なスーパーに足を踏み入れた。

いざ、着地してみるとそこは森の様な草むらに二人は降り立っていた。

気がつくとそこは十字路の真ん中に二人は立ち止まっていた。

ハッと後ろを振り返った翼の目に映っていたのは、輝彦と同年代くらいの紳士がこちらを向いていた。

(『リアル鬼ごっこ山田悠介著(文芸社)より*1

8/16追記:『リアル鬼ごっこ』の初出は自費出版なので携帯小説というわけではないらしい。 id:umeten さんによるトラックバックエントリid:tomoki_hot さんによるコメントより。定義がよく判っていなかったもので、どうもすみません。でも内容は特にそこに依存したものではないのでこのままで。


文法的におかしいというのはそうなのだけど、次のように分解してみると同型の間違い(あるいはゆらぎ)ともみなせる。

(原文)二人が向かった先は地元で有名なスーパーに足を踏み入れた。
     ↓
二人が向かった先は地元で有名なスーパーだった。 + 二人はそこ(スーパー)に足を踏み入れた。

(原文)気がつくとそこは十字路の真ん中に二人は立ち止まっていた。
     ↓
気がつくとそこは十字路の真ん中だった。 + 二人はそこ(十字路の真ん中)に立ち止まっていた。


つまり文章の途中で出てくる単語(スーパー、十字路の真ん中)を介して、通常は2文に分けられる内容


説明(AはBである) → 動作(Bに(が)Cした)


が単一の文になっている。


思ったこと:

  • こういう文が生まれたプロセスに興味がある。例えば単純に校正(?)か何かのときの不注意によってつながりが変な文が出来たのか、それともこれらは著者にとっては自然な文なのか。
  • 自然だとすると、著者の脳内には一般的な文法体系とは違う規範があるようにも思える。
  • 1文としてみると変だけれど、局所的に見ると変ではない。一般的な日本語話者でも伝達内容は(おそらく)一意に解することが出来る。
  • 短期記憶が特殊?
  • 「説明→動作」以外の結合パターンはあり得ない? 「説明→説明」(「気がつくとそこは十字路の真ん中は二人の思い出の土地だ」)とかいう例もあるのだろうか。
  • 後置修飾が出来る言語ならこの程度の結合は許容範囲? He is a boy looking for the girl.
  • 文芸社の編集者にとってもこういう文は自然(許容範囲)なのだろうか。


 リンク先で挙げられている他の妙な日本語の例を見ると、単純に急いで書いたのかなという気もする。それにしてもそのゆらぎに一定の規則がある(ように見える)のは、アトラクタ的な匂いがしてちょっと面白いと思った。

そこには目の前に九人の鬼達が翼を囲むようにして全ての鬼が地面に落ちた翼をゴーグル越しに見据えている。

(引用元同じ)


うーんちょっと分析不可能。


 

*1:例文は主にこちらのページおよびそのリンク先から引用させていただきました。
ネ言 negen - 真・難解な日本語5 - negen さん