ミクロとマクロ雑感


 神経細胞の状態変数と遷移規則を全部書き連ねることが出来るなら、原理的には神経系の全ての挙動をオートマトン的に記述・予測することが出来るはず。今のところスパイク応答等の短期の現象に関わる状態変数と遷移規則については Hodgkin & Huxley モデルやコンパートメントモデル等によってかなりの記述が出来るようになってきているけど、可塑的な変化も含めたより長期の遷移規則(学習規則)についてはまだ心もとない。


 一方で理論神経科学の世界では、神経細胞レベルでの学習規則はとりあえず置いておいて、(1)モデル神経系に対する入力の統計的な性質および(2)系全体で最適化すべき目的関数、の2つを規定して学習を行わせることで、その挙動の予測(というか生理学的知見の再現)を試みるというのが一つの流れのようだ(代表的にはOlshausen & Field 1996)。


 こういういわばマクロな目的関数を元に議論をする理論神経科学者は、ミクロな世界の性質である神経細胞シナプス単位での学習規則についてどう考えているのだろう? と思っていたら、それを聞く機会があった。ある研究者曰く、


 「ヘブ則や LTP、LTD、STDP なんかは、実験的に制御された状態で見られる学習の副次効果(side effect)に過ぎない。自分達のシミュレーションの合間にモデル細胞の挙動を調べてみると、特定の条件下においては STDP 様の挙動が見られる場合もあるし、その逆の現象が見られる場合もある。生理学者はそうした挙動にいちいち名前をつけて喜んでいるけれど、それはより大局的な学習規則が見せる副次効果でしかないのだ」


とのこと。そこまで言うならあなたの言う大局的な学習効果というのは何なんだ、と聞くと、それはよく判らない、まだシンプルに書き下すことも出来ない何か複雑なもの、との答えだった。


 それではダメなのだ。解釈可能かつ実験的に検証可能でなければ、それはまだ科学ではないし、だいたいシミュレーションなんてモデルの立て方次第で全く違う効果が出せるわけで、それ単体での知見は無意味だと思う。


 でも生理学者の見ているものはより広範な現象を説明する原理の一側面だ、というのはそうかもしれない。そこにはまだケプラーの法則から万有引力の法則に至るような飛躍的な何かがあるのかもしれない。


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 ミクロとマクロというと統計力学と熱力学を思い出すのだけど、実は大先輩であるこれらの分野でもミクロとマクロはまだ完全に合致していないらしい。

熱力学の対象となるのは、単に平衡状態の性質だけでなく、平衡状態の間の(許される範囲での)任意の操作による移り変わりとその際のエネルギーのやりとりなのである。操作の前後が平衡でありさえすれば、途中でいかに荒々しい非平衡の時間変化がおきても、熱力学は定量的に厳密に適用できる。しかし、現在完成している統計物理学では、このような荒々しい時間変化を含む問題には手も足も出ない。

(『熱力学−現代的な視点から』田崎晴明(2000)、培風館、p.14)
(『熱とはなんだろう』竹内薫(2002)*1講談社、p.132)


 神経科学ではまずミクロの遷移規則がよく判っていない。マクロのどういう状態変数(熱力学で言うP,V,T,Sなど)を扱えば現象理解に役立つかも判っていない。ミクロの遷移規則がわかったところで、それが現在の数学で解析可能なほどに単純なものかも判らない。そしておそらく情報処理を行っている神経系は比喩的な意味でも「平衡状態」にあるとは考えにくい。より単純な系を扱っている力学でこの段階なら、神経系を理解できるのはいつになるのだろう。


 (てんかん発作は振動解というか、ある種の平衡状態かもしれない。でもそういう状態の理解が主目的ではない。)

*1:第3刷の引用に誤記あり。正:現代的な視点から 誤:現代的な観点から