公共事業としての科学


 日本では景気・雇用対策の一環として建設業が大きな役割を果たしている。アメリカではある程度それに類する形で、軍事産業が同じ役割を果たしているように思う。しかし両者は環境あるいは人類に対する悪影響が大きい。またどちらも一定のレベルを超えるとその本来の効用が限りなくゼロに近づいていく(無限に高速道路を作っても意味はない。世界最強の軍隊をそれ以上補強してもあまり嬉しくない、等)。


 そこで建設・軍事に代わる新たな公共事業・雇用対策のお題目として、「科学」というのはどうだろうか。個別に科学研究をするだけならそれ自体が社会や環境に及ぼす悪影響は(大規模建設や軍事行動に比べると)少ないように思う。また科学は半永久的に続けることが可能で、効用が収束していく先も(今のところ)見えない。科学はその性質上、投資の大部分が短・中期的には回収されない可能性があるけれど、どちらにしろ本来の効用よりも景気・雇用対策としての役割が大きいならば、無駄にダムを作るよりは無駄に科学をする方が後につながる可能性を残す分だけ良いのではないだろうか。もちろん、万が一にでも新分野・新産業が生み出されたときの影響は計り知れない。


 雇用対策として有用なのは高度な学歴がなくても出来ることであり、科学はそれに当てはまらないとする考え方もあるかもしれない。しかしこれはあまり問題にならないように思う。必ずしも科学者を量産する必要は無く、科学を補助する技官となる人材を増やせば良い。科学にも様々な段階・分野があり、頭で考えるだけで解決するような部分は(純粋な理論分野を除き)それほど律速にはならない。現在のところ科学の発展の足かせとなっているのはそのような部分ではなく、むしろどうしても手間隙がかかり、ある程度は人海戦術に任せて行う必要のある実験の部分だ。特に21世紀の科学の主役の一つになるであろう生命科学の分野でこの傾向は顕著である。科学者が立案した実験の遂行やその補助を行う、段階に応じた専門性を持つエキスパート集団を形成できるような人的・金銭的リソースがあれば、それらは科学の発展に大きく寄与する。

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 実際のところ、アメリカでは軍事研究の名において限りなく基礎研究に近い分野にリソースが振り分けられている部分がある。DARPA国防省高等研究計画局)による基礎研究分野への支援がその一例である。その成果は例えばインターネットや GPS などの形で民間に転用され、広く公共に利する結果となった。現在でも DARPA は数理科学や脳神経科学などの分野を積極的に支援しており、軍事研究と科学の境界は一部あいまいになっている。これらの予算配分が今後どのように推移するかは、両者を支持する団体の政治力によるものと考えられる。


 現在のところ日本の科学者は強い政治力を持っているとは言えない。しかし公共事業としての科学は、建設業と比べて上に述べたいくつかの利点を持つ。また、借り物の科学を基にした技術立国という立場を次代の新興国に明け渡しつつある今、自ら行う科学研究を基盤とした知財立国を目指すことは国益に適うと考える。このため、日本の科学者がより強い政治力を持つアメリカの科学者団体、あるいは日本の建設・道路族に学ぶことは大きな意義があると考える。